古/いにしえの面影       其の一阡五百八拾五
怪しい親爺輪っぱの会
 別館 一人歩き編です。

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撮影日  2021年07月22日 木曜日
アップ日  2022年08月31日 水曜日

大阪市天王寺区四天王寺(安政地震津波碑)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

安政南海地震(あんせい なんかいじしん)は、
江戸時代後期の嘉永7年11月5日(1854年12月24日)に発生した南海地震である。

南海トラフ巨大地震の1つとされ、約32時間前に発生した安政東海地震と共に安政地震、
安政大地震とも総称される。
この地震が起きた当時の文書には嘉永七年と記録されているが、
この天変地異や内裏炎上、前年の黒船来航を期に改元されて安政と改められ、
歴史年表上では安政元年(1854年)であることから安政を冠して呼ばれる。
当時は寅の大変(とらのたいへん)とも呼ばれた。
(Wikipediaより)

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弘法大師空海の命日(3月21日)に因んで毎月21日に
四天王寺骨董市が開かれています。

※元三大師堂(重要文化財) - 元和4年(1618年)建立。
寄棟造、瓦葺き。元三大師良源を祀る。

境内西北の墓域に位置する。元は四天王寺別院の椎寺・普門院であったが、
宝永4年(1707年)までには元三大師像を祀るようになり、元三大師堂と呼ばれるようになった。
(Wikipediaより)

良源(りょうげん、延喜12年9月3日(912年10月15日) - 永観3年1月3日(985年1月26日))は、
平安時代の天台宗の僧。諡号は慈恵大師(じえだいし)。
一般には通称の元三大師(がんざんだいし)の名で知られる。
第18代天台座主(天台宗の最高の位)であり、比叡山延暦寺の中興の祖として知られる。
また、中世以降は民間において「厄除け大師」など独特の信仰を集め今日に至る。
「定心房(じょうしんぼう)」と呼ばれる漬物を伝授しており、
これを沢庵漬けの始祖とする説もある。

(Wikipediaより)


 
角大師
角大師と呼ばれる図像には、2本の角を持ち骨と皮とに痩せさらばえた
夜叉の像を表したものと、眉毛が角のように伸びたものの2つのタイプがある。
『元三大師縁起』などの伝説によると
、良源が夜叉の姿に化して疫病神を追い払った時の像であるという。
角大師の像は魔除けの護符として毎年正月に売り出され、
比叡山の麓の坂本や京都の民家で貼られた。
(Wikipediaより)

町人一同により
建立されたんですね。

※南海地震の爪痕は
前には~
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無縁仏石碑の中に
建っています。

※安政二年銘

高橋正純
1835-1891 幕末-明治時代の医師。
天保(てんぽう)6年6月28日生まれ。高橋春圃の長男。
横井小楠(しょうなん)に漢学を,青木周弼(しゅうすけ)らに医術をまなぶ。
長崎でポンペ,ボードインらについて西洋医学をおさめ,長崎病院塾頭となる。
肥後熊本藩医をへて,維新後,大阪医学校長兼病院長などを歴任。
明治24年1月28日死去。57歳。肥後出身。初名は文貞。号は清軒。
(コトバンクより)

大阪医学校は適塾が前進なんですね。
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 ヨハネス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト
(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort,
1829年5月5日、ブルッヘ - 1908年10月7日、ブリュッセル)は、
オランダ海軍の二等軍医。
ユトレヒト陸軍軍医学校で医学を学び軍医となった
。幕末に来日し、オランダ医学を伝えた。
日本で初めて基礎的な科目から医学を教え、
現在の長崎大学医学部である伝習所付属の西洋式の病院も作った。

また、患者の身分にかかわらず診療を行ったことでも知られている。
日本には1862年(文久2年)まで滞在し、その後はオランダに戻った。
後年、日本での生活を振り返って「夢のようであった」と発言している。
長崎奉行所西役所医学伝習所において医学伝習を開始した1857年11月12日(安政4年9月26日)は、
近代西洋医学教育発祥の日であり、現在長崎大学医学部の開学記念日とされている。
(Wikipediaより)

アントニウス・フランシスクス・ボードウィン
(Anthonius Franciscus Bauduin、1820年6月20日 - 1885年6月7日)は、オランダ出身の軍医。
1820年にドルトレヒトにフランス系の家庭に生まれる。
ユトレヒト陸軍軍医学校とユトレヒト大学医学部で医学を学び、卒業後はオランダ陸軍に入隊し、
1845年からはユトレヒト陸軍軍医学校で教官を務める。
1862年(文久2年)、先に日本の出島に滞在していた弟の働きかけにより、江戸幕府の招きを受けて来日。
ポンペの後任として長崎養生所の教頭となる。
その間、東京、大阪、長崎で蘭医学を広め、また養生所の基礎科学教育の充実に努める。
そして幕府に医学・理学学校の建設を呼びかけ、その準備のために1866年(慶応2年)に教頭を離任し、
緒方惟準ら留学生を伴って帰国したが、この話は大政奉還で白紙に戻った為、
1867年(慶応3年)に再来日し、新政府に同内容の呼びかけを行う。
1870年、大阪仮学校、大阪陸軍病院に務め、大学東校で教鞭をとった後に帰国。
1873年にはオランダ陸軍に復帰。
1884年に退役し、ハーグで1885年に病没した。
(Wikipediaより)
やはり持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖擦り合うも他所の縁~
いつまで知った景色が在るのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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