前回からの続きです~
旧萩原家住宅の茅葺屋根を葺かれてました。
旧萩原家住宅 - 県指定文化財 旧所在:桜井市下
桜井市下(旧下村)に所在していた農家で、組頭を務めたといわれている。
建築年代については史料を欠くが、
構造手法上からみて18世紀初期の建築とみられる。
下村は昔、宿場で栄えた桜井から、南方へ約2km離れ、
多武峰に向う街道に沿った村落である。萩原家はこの村の北部にあって、
西丘陵の中腹に屋敷を構え、主屋は奈良盆地を望むところに
南向きに建てられていた。
(奈良県HPより)
※屋根資材の確保が難しいでしょうね。
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葺き替え
場所や使用状態にもよるがススキの茅葺の場合15-20年程度で
屋根全体を葺き替えることが多いようである。
ただし棟付近は傷みが激しいので定期的な補修が必要である。
ススキの茅葺であっても棟にだけは耐久性の向上を目的としてヨシを用いることも多い。
全てヨシ吹きの場合40年以上の耐久性があり、
「刺し茅」という技法で補修するため屋根全体の葺き替えは殆ど行わない。
ただし、ヨシはススキに比べて、材料も高く屋根を葺く技術も高いものが要求される。
材料の確保については、元来は村落周辺に茅場と呼ばれるススキ草原があった。
これは、家畜の飼料などとして定期的に刈り入れを行い、あるいは春先に野焼きすることで
遷移の進行を止めてススキ草原を維持していたものである。
しかし、第二次世界大戦以降の生活の変化によって利用されなくなり、ほとんどが失われた。
しかし、その後の減反や離農によりかつての耕作地が自然にススキ原と化している場所も増えていることから、
茅集めは以前よりは苦労しなくなっているという。
(Wikipediaより)
※コバノミツバツツジ満開!
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旧八重川家住宅
もと、山辺郡都祁村大字針に所在しており、代々農業を営んでいた家と伝わっています。
建築年代を示す史料はありませんが、建物の形式手法からみて19世紀前半頃の建築と思われます。
移築前の間取りは、正面に向かって左半分が居室、右半分が土間でした。
居室は三室で、表側に半間の縁がつき、表「ざしき」8畳は床、押入をしつらえ、
裏の二室は土間側に、「なかま」8畳室、「なんど」3畳、押入付きで妻側へ半間張り出していました。
土間は表の右隅に「はたべや」4畳半、この妻側に風呂、便所を設け、はたべや裏側は釜屋で、
その裏側は流し台、妻側に戸棚が付き、居室境は表より上り縁、「ひろしき」を付設し、
奥に戸棚を設けていました。
復原にあたって、部材痕跡等によって、建築当時の間取り、外観に戻しています。
居室は二室、「なかま」は6畳となって、この表側に半間の縁がつきました。
また「はたべや」を撤去して「まや」とし、上り縁を撤去して土間を現しました。
外観については、棟飾り部分の桟瓦小屋をカラストビ形式の棟飾りとし、
両側及び背面の庇を撤去して、四面葺き下ろし形式となりました。
(奈良県HPより)
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飾りの弓矢に関しては
記載されていませんね。
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基本的な間取りは
田の字ですね。
※竹の軒に
分厚い茅葺屋根
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表座敷
※土間
太い梁に
作り竃や水屋が良いですね。
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へぇー
※簀の子天井
この上に平均5cm程の土が
載せられているそうで~
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小物意匠が良いですね。
※お隣から
見返って~
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旧岩本家住宅 - 重要文化財
旧所在:宇陀郡室生村黒岩(現・宇陀市室生黒岩)
宇陀郡室生村黒岩に所在していた。
農業・林業を営み、庄屋年寄を務めたと伝えられている。
建築年代については、構造手法上から19世紀前半でも
末頃の建築とみられる。
黒岩は室生寺から東南方へ約5キロへだたり、胎ノ川の支流、
黒岩川の中程で、谷間の南斜面を利用した村落である。
土間上の奥行に太い梁を半間毎に架け渡すなど、
この地方の特色をよく示している。
(奈良県HPより)
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軒下に唐箕と大八車
大八車(だいはちぐるま)とは、
江戸時代から昭和時代中期にかけての
日本で荷物の輸送に使われていた総木製の人力荷車である。
代八車とも書く。
なお、同様の構造の荷車は少なくとも平安時代から使用され続けているが、
一般的には江戸時代からとされることが多い。
名前の由来は
・一台で八人分の仕事(運搬)ができるところから(代八車)。
・車台の大きさが8尺(約2.4m)のものを大八と呼んだ
・現在の滋賀県大津の八町で使われていたことから、
「大津八町の車」が略され「大八車」になった
・芝高輪牛町の大工八五郎が発明した。
・宮城県の針生大八郎が発明した。
(Wikipediaより)
※軒下風景~
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縁側風景~
ええなぁ
※空気窓意匠
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此処も造は
田の字型
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屋根裏は
何に使われていたんでしょうか?
※畳が良いですね。
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唐臼
※H27年度クラウドファンディング
賛同感謝です!
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5連作り竃
火消壺も
※見返って~
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旧松井家住宅 - 県指定文化財
旧所在:宇陀郡室生村上笠間(現・宇陀市室生上笠間)
宇陀郡室生村上笠間にあった農家。当家の口伝によれば、
その昔、代官を務めた子孫と伝えている。この主屋の建築年代は、
文政13年3月(1830年)記の祈祷札(解体中に発見)や、間取り、
構造などから見ても、この文政13年の祈祷札から降らない頃に
建てられたものと認められる。
間仕切り箇所には突き止め溝を多用するほか、居室裏側の床が、
簀の子床となるところなど、東部山間の民家の変遷をよく示している。
(奈良県HPより)
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お邪魔します~
※ヤマグワ
養蚕の名残でしょうか?
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作り竃
※石臼
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縁側風景~
※良いですね!
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吉野集落ゾーン
※平成30年台風第21号(へいせい30ねんたいふうだい21ごう、
アジア名:チェービー/Jebi/제비、命名:韓国、意味:つばめ、フィリピン名:メイメイ/Maymay)は、
2018年8月28日に発生し、9月4日に日本に上陸した台風。
25年ぶりに「非常に強い」勢力で日本に上陸し、近畿地方を中心に甚大な被害を出した。
(Wikipediaより)
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旧前坊家住宅 - 県指定文化財
旧所在:吉野郡吉野町(主屋、離座敷、渡廊下の3棟)
吉野山の門前町筋にあって金峯山寺仁王門と発心門(銅鳥居)のほぼ中程、
大道を北面して屋敷を構え、代々吉野水分神社の神官を勤めたと伝える家である。
建物の建築年代は、主屋(切妻造、一部二階建)、
渡廊下及び離座敷の建築年代を示す資料は明かではないが、
解体中の各種の部材調査から総合的に判断すれば、主屋の居室、
表側四室の柱が経年的にみて18世紀中頃であり、
また転入材もあるところから弘化年間(1844~7年)頃に
主屋大修理・改造を行ない順次、渡廊下及び離座敷を建てたものと思われる。
(奈良県HPより)
※奇麗な檜皮壁
昔は大阪市内でも見られましたが~
台風被害で立入禁止(残念!)
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吉野集落
旧木村家住宅 - 県指定文化財
旧所在:吉野郡十津川村大字旭字迫(主屋、納屋の2棟)
吉野郡十津川村大字旭字迫に所在していた山間の家で、
農林業を営み、幕末頃には村役を務めたと伝えられている。
建物の建築年代は主屋が文政4年(1821、棟礼)、
納屋および表門は19世紀中頃である。
※この家が所在した当地は「迫と背中は見ずに死ぬ」言いならわされたほど
山深い峡谷の地である。また、全国でも最多降雨の一地帯であり、
さらに季節によって、風が谷間から猛烈に吹上げる土地柄でもある。
その様な厳しい自然環境のため、
県北部の民家とは姿や間取りが大きく異なっている。
この住宅によって、奥吉野地方の当時の生活様式を思い起すことができると共に、
主屋の建築当初の規模(間口4間、面積16.5坪)から増築をへて、
さらに納屋・表門が建てられ、屋敷構えが拡充してきた過程も併せ示す好資料である。
(奈良県HPより)
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こんな悪戯坊主も居たんでしょうかね?
※濡縁では無いですが~
多雨と雪除け?
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囲炉裏が良いですね~
憧れます~
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唐臼
オリジナルですね!
※仕切り壁は無くて開放的ですね。
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軒には樋が無く
下には溝が切られています。
※屋根の檜皮は
石と丸太で押さえられています。
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見返って~
傾斜地が似合います。
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モクレン(木蓮、木蘭、学名: Magnolia liliiflora)は、
モクレン科モクレン属に属する落葉低木の1種である。
春に葉が展開するのと同時期に紫紅色の花が上向きに咲く。
花が紫色であることからシモクレン(紫木蓮)ともよばれ、こちらを標準名としていることも多い。
中国南部原産であり、日本を含む世界各地で観賞用に植栽されている。
またモクレン類のつぼみを風乾したものは生薬として辛夷(しんい)とよばれるが、
漢名の辛夷はモクレン(シモクレン)とされることが多い(日本ではコブシに辛夷の字を充てる)。
(Wikipediaより)
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