古/いにしえの面影       其の一阡五百弐拾
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2020年11月08日 日曜日
アップ日  2021年08月03日 火曜日

三重県尾鷲市歩きポタⅠ(尾鷲神社)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)
尾鷲市(おわせし)は、三重県南部にある市。東紀州地域に含まれ、熊野灘に面している。
降水量が多いことで知られる。縄文時代より畿内や関東の文化の影響を受ける。
志摩国英虞郡
天正10年(1582年) - 紀伊新宮城主の堀内氏善と伊勢国司の北畠信雄が荷坂峠を境として、
それぞれが紀伊国牟婁郡と伊勢国度会郡に編入したため、尾鷲は紀伊国牟婁郡となる
紀伊国牟婁郡奥熊野尾鷲組
寛文年間(1624年-1643年) - 土井新助が尾鷲に移住してスギ・ヒノキを植栽し、
人工造林及び尾鷲林業の端を開く。
文化2年(1805年)6月19日 - 伊能忠敬が尾鷲・熊野の測量開始。
1944年(昭和19年) - 東南海地震で壊滅的な被害を受ける。
1954年(昭和29年)6月20日 - 北牟婁郡尾鷲町、須賀利村、九鬼村、南牟婁郡北輪内村、
南輪内村が合併し、尾鷲市となる。
1971年(昭和46年)9月10日 - 集中豪雨により土砂災害が発生。
賀田町の土石流、古江町の山腹崩壊などでにより死者26人。
2010年(平成22年)4月1日 - 過疎地域自立促進特別措置法の適用を受けて過疎地域となる。
市名は「おわし」と読まれることもあるが、地元では本来「おわしぇ」と読んでいたので、
それを標準語化した「おわせ」を市名に制定した(1954年6月20日制定)。
なお、1942年に撮影された尾鷲駅の写真では「をわし」と駅名標に書かれている。
(Wikipediaより)

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二級河川の北川沿いに
県道中井浦九鬼線

※海岸線が近いので水門~

特徴的な樹木も~

※北川橋

金剛寺さん
立派な山門
金剛寺の仁王像
仁王尊は伽藍(がらん)守護の神で、寺院山門の両脇に安置されている。
開口形を金剛像、閉口形を力士像というが、
ともに勇猛(ゆうもう)・獰悪(どうあく)の形相をしていて、寺院の守護神である。

この仁王尊一対は、ドイツ人が日本で購入し、本国に持ち帰るべく横浜港に運んだところ、
大正3(1914)年8月、第一次世界大戦となり、日独が敵対関係となったため、彼は輸送を断念し、
横浜の業者に売却して帰国した。
それを、昭和3(1928)年に金剛寺山門が落成したとき、鬼頭弥左衛門氏が購入し寄進したものである。
当地方では立派な山門を有し、巨大な仁王像をまつっているのは、金剛寺だけであり、
そのうえ見事な力強い彫刻である。江戸時代初期の制作と推定され、身長はともに3m70cmである。
(尾鷲市HPより)

今度見に行こうっと!

※鐘楼も~

お隣に尾鷲神社サン
尾鷲神社(おわせじんじゃ)は、三重県尾鷲市北浦町12-5にある神社。
尾鷲七郷の総鎮守(氏神)であり、例祭のヤーヤ祭りで知られる。
近代社格制度に基づく旧社格は郷社。
宝永4年(1707年)の宝永地震と安政元年(1854年)の安政南海地震による津波で記録や古文書などが流出しており、
尾鷲神社の歴史は判然としない。
尾鷲神社自身は古老の伝承に倣って「大宝年間(701年 - 703年)に
播磨国広峰山の広峯社より建速須佐之男命を勧請したのが創祀」としている。
紀伊続風土記によれば、尾鷲神社は伊勢神宮の神領にあり、遷宮の際には豊受大神宮(外宮)の
神職が神事を執り行ったとの記述がある。

寛永12年(1635年)に紀州藩が作成した奥熊野山林御定書には「大宝天王 一楠廻壱丈九尺 廻壱丈八尺 (中略)、
右者奥熊野尾鷲組在々之内、寺社境内ニ当時生立御座候楠栢槻私共相改候間、尺廻等如斯ニ御座候。以上」とあり、
大楠の幹周りが現在の単位に換算して5.7メートルだったと記録されている。
宝永4年(1707年)の宝永地震の際には、地震に伴う津波で尾鷲神社の本殿が流出したが、
本殿の脇に立っていた大楠は生き残った。
1966年(昭和41年)には腐った大楠の幹の空洞に火が入り、3日間燃え続けたが大楠は無事だった。
2020年から2021年の年越しにかけてはかがり火を焚くのをやめ、新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、
年越しでの初詣の自粛を求めた。
(Wikipediaより)







「尾鷲神社の大樟」
夫婦楠と呼ばれる2本のクスの巨木5メートルほどの間隔で並んでおり、枝が重なり合って一つの樹冠を形成している。
南側の雄楠は目通り幹回り10メートル、北側の雌楠は目通り幹回り9メートルに達する。
雄楠も雌楠も樹齢1000年以上と推定され、ともに三重県屈指の巨樹とされる。
1937年(昭和12年)11月12日、三重県天然記念物に指定された。
雌楠の瘤こぶに触ると子を授かるという言い伝えがあり、古くから子宝授けなどのの神木として親しまれている。
近年には子宝授けの縁起にあやかろうと、遠方からも参拝者があるという。
(Wikipediaより)


※夫婦楠

 手水鉢

※「尾鷲神社獅子頭」
本殿内の獅子殿には、総高33cm×面長46cmの木彫の獅子頭が安置されている。
例祭であるヤーヤ祭の最終日、御獅子出御の儀式で使用される。
1968年(昭和43年)3月22日、三重県有形民俗文化財に指定された。
(Wikipediaより)


神馬像



拝殿正面の狛犬


※吽

栃の実が供えられてました。

拝殿正面
左手に栃の木が~



尾鷲市絵図

※北川橋から市内へ~

 北川
上流側

※護岸整備されたところも~

二階建て土蔵も~



ありゃ~

※妻入り家屋通り

遠洋漁業の基地だったせいか
飲み屋さんが多い~



うどん屋さん?



遠洋漁業基地
前には~
01 02

※空地も目につきます。

軒先歩きポタ~

※津波は逃げるが勝ち!

商店街の面持ち



ウロウロと~



新型コロナウイルスの関係で
人気が少ない?



尾鷲小学校
門柱も歴史を感じられます。

※二宮金次郎像

ミゾソバ満開



市内地は400m~500mの
山地に囲まれてます。

※天狗倉山(522m)
馬越峠(まごせとうげ)は、三重県北牟婁郡紀北町と尾鷲市の境をなす峠。
標高は資料によって値が異なり、325m・340m・350mとされる。
天狗倉山の西部を越えている。残された峠の石畳道は約2km。杉・桧が林立する森の中を幅1間半の古道が続く。
峠道の頂上には西国三十三所名所図会に描かれた茶屋の跡がある。
開通時期は未詳であるが、元和9年(1623年)・寛永12年(1635年)・正徳2年(1712年)とする説があり、
紀州藩によって整備された。
ただし、現代も見ることのできる江戸時代に整備された石畳の下には、鎌倉時代から室町時代に敷かれた石畳が眠っている。
峠道は1888年(明治21年)に海岸沿いを通る車道が開通し、1916年(大正5年)には
相賀トンネルと尾鷲トンネルが開通したことから利用が激減した。1934年(昭和9年)には紀勢東線も開通している。

石畳の保存状況が良かったことから、1973年(昭和48年)に尾鷲市指定文化財となる。
平成16年台風第21号(2004年)が襲来した際は国道42号が崩落により通行止めとなる中で
馬越峠の石畳道はびくともせず、尾鷲市からの災害ボランティアが峠を徒歩で超えて
海山町(現・紀北町)へ向かったというエピソードがある。
2021年(令和3年)4月8日、東京オリンピックの聖火リレーのコースの一部に選ばれ、
峠の紀北町側(登り口から夜泣き地蔵前まで)を聖火ランナーが通った。
三重・奈良・和歌山の3県で熊野古道はゆとりを持って歩くことを取り決めているため、
峠道では走らずに歩いて聖火をつないだ。
(Wikipediaより)


JR尾鷲駅

※改装中

駅周辺風景



県道203号 紀望通り



県道203号 紀望通り

※煉瓦で囲まれた井戸?
野路町辺り~

商店街へ~



旅館ですか~

※破風付き玄関




尾鷲よいとこスタンプ



パチンコ屋さんもシャッター…



NTTのテーブルアンテナ



大漁旗
栄町辺り~



飲みましょう



港町辺り~



おお!
お風呂屋さん



手摺付き家屋
窓枠も御洒落!

※遠望にすれば山が入ります。

北川への流れ込み

※尾鷲漁協脇に~

恵比寿神社サン

※手水鉢

漁港に~

※喧騒は一段落して~

遠洋漁船

※中部電力尾鷲三田火力発電所の煙突撤去中

この生簀は?

※大きめの船も~

沖の波止には
釣り人に姿もチラホラ~

※人と鳥の距離感!

北川河口、漁港の隣の
旧波止でしょうか?

※波止の方に向かって~

あそこまで~

※県道155号
切通抜けて~

天満浦辺り~



何の干し網でしょうか?
シラス?

※海抜0mに近い

市内方向を望む~

※漁船の溜まり




夕景の尾鷲港~



沖には佐波留島
別名ムーミン島

※ん?帆船!
やはり持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖擦り合うも他所の縁~
いつまで知った景色が在るのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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