古/いにしえの面影       其の一阡五百八拾
怪しい親爺輪っぱの会
 別館 一人歩き編です。

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撮影日  2020年09月10日 木曜日
アップ日  2022年08月30日 火曜日

奈良県大和郡山市横田町(和爾下神社(下治道宮))
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

大和郡山市
古代の大和国添下郡村国郷、矢田郷、添上郡大宅郷、平群郡額田郷の地である。
延喜式内の矢田坐久志玉比古神社(矢田町)や菅田神社(八条町)、賣太神社(稗田)が鎮座する。
都市の形が形成されたのは、戦国時代末期に筒井順慶が郡山城に拠り、その城下町が発達してからである。
順慶亡き後1585年に豊臣秀長(当時羽柴秀長)が郡山城に入り、郡山はこの時期大和国の中心都市として栄えた。
江戸時代に入ってからは一時奈良奉行所の管轄となったが荒廃する。
大坂夏の陣後に同戦役で活躍した水野勝成が入り、以後松平忠明に始まる松平家、
本多政勝に始まる本多家と続き、享保9年(1724年)には、
享保の改革における幕府直轄領拡大政策に際して甲斐国が幕領化され甲府藩藩主であった柳沢吉里が転封され、
明治維新まで柳沢氏が郡山藩藩主家として一帯を統治した。
また、片桐且元または片桐貞隆に始まる片桐氏が市内、小泉町の小泉陣屋に入り、小泉藩(片桐藩)藩主となった。
版籍奉還・廃藩置県に始まる紆余曲折を経て、1887年に奈良県が再設置された。
1889年の町村制実施で8つの町村(郡山町、筒井村、矢田村、本多村、平端村、治道村、平和村、片桐村)が誕生。
1896年に添下郡と平群郡が合併、生駒郡が成立、現在の大和郡山市役所に生駒郡役場が置かれた。
(Wikipediaより)


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治道村(はるみちむら)は奈良県北西部、添上郡に属していた村。現在は大和郡山市の一部。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、添上郡 白土村, 石川村, 横田村, 櫟枝村, 発志院村,
中城村, 山辺郡 新庄村, 添下郡 番条村, 伊豆七条村が合併し治道村が成立。
1953年(昭和28年)12月10日 - 郡山町に編入され、消滅。
(Wikipediaより)

※竜田道(治道)沿いの
消防団納庫脇に~

青年団創立25周年記念碑

※大きな石燈籠

神社正面

前には

延喜式内社



杯状穴付きの手水鉢

※和爾下神社御造営記念碑

割拝殿舎前

※本殿舎正面

拝殿舎前の狛犬


※吽

本殿舎脇の
境内摂社

※沢山あります。

本殿舎脇から~



見返って~

北へ~

※高瀬川渡って~

鳥居が目を惹きます。

※小女郎稲荷サン

小さな境内



大杉・高杉大神



圃場の海に
集落の島が点在状態


やはり持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖擦り合うも他所の縁~
いつまで知った景色が在るのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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