其の一阡五百七拾
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。
(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)
撮影日 2021年10月20日 水曜日 アップ日 2022年07月07日 木曜日 |
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ワッカン~
資料として気になる街角 撮っておきや!(by UFO先生) 昭和東南海地震(しょうわとうなんかいじしん)は、 1944年(昭和19年)12月7日午後1時36分から、 紀伊半島東部の熊野灘、三重県尾鷲市沖約20キロメートル(北緯33度8分、東経136度6分)から 浜名湖沖まで破壊が進行した(震源としては「熊野灘」)、 M7.9(Mw8.2)のプレート境界型巨大地震。 単に「東南海地震」または「1944年東南海地震」と呼ばれることがある。 また当初は遠州沖大地震と呼ばれていたが、 東海地域の軍需工場が壊滅的な打撃を受けたことを隠匿するため、 「東南海地震」に変更したとする説がある。 1945年前後にかけて4年連続で1000名を超える死者を出した 4大地震(鳥取地震、三河地震、南海地震)の一つである。 一般に死者・行方不明者は1223名を数えたとされる。 東南海地震震源域で発生した前回の巨大地震である安政東海地震から90年ぶりでの発生となっている。 この地震によって関東大震災のような大規模な火災は発生しなかった。 これは建物倒潰が比較的少なかったこと、 発震時刻が昼過ぎであり火を使っている場所が少なかったこと、 天候が穏やかで風が弱かったこと、更に第二次世界大戦中で 人々の緊張が高まっていたことなどが要因として挙げられている。 地震後の津波では震源域に近い尾鷲市を中心に熊野灘沿岸一帯に壊滅的な被害をもたらした。 三重県、和歌山県沿岸で特に高く、波高は新鹿で6-8m、賀田で7.1m、錦で6m、勝浦で4-5mであった。 最大波高は、尾鷲市賀田地区で記録された 9m 。 第一波が襲った後、家へ荷物などを取りに戻り、第二波に巻き込まれ、亡くなった例もあった。 津波被害は米軍により空中撮影された。 (Wikipediaより) (※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)
やはり持ってるものはUPして
資料的に残さねば… 気を抜いたらあきません~ 何時のが出てくるか判りまへんで! 袖擦り合うも他所の縁~ いつまで知った景色が在るのやら。。 頑張ってボチボチ更新中…^^;
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