古/いにしえの面影       其の一阡五百五拾九
怪しい親爺輪っぱの会
 別館 一人歩き編です。

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撮影日  2020年11月25日 水曜日
アップ日  2022年06月29日 水曜日

三重県熊野市(歩きポタⅡ)木本本町通り
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

熊野古道の伊勢路(いせじ)とは、
伊勢国・伊勢神宮から、熊野三山(熊野本宮大社熊野速玉大社熊野那智大社)へ
通じる参詣道であり、熊野参詣道のひとつである。
伊勢神宮から熊野速玉大社までの総距離は約170km。
国の史跡「熊野参詣道」(2000年〈平成12年〉11月2日指定)の一部として、
2002年(平成14年)12月19日に追加指定を受けている。
2004年(平成16年)7月に登録されたユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部。
世界遺産登録区間は断続的に計32.9km。
古くから、伊勢神宮と熊野三山を結ぶ交通路で『東海道中膝栗毛』にも登場し、
「伊勢へ七度、熊野へ三度」と呼ばれる信仰の路であった。
紀伊路などの和歌山県側の古道が貴族にも多く利用されてきたのに対して
、伊勢路は主に庶民が利用する道として歴史を重ねてきた。
熊野古道として人々の注目を浴びてきたのは主に和歌山県側の道であり、
庶民が主に利用した伊勢路が注目されることは1980年代までほとんどなかった。
一方で、1970年代頃より一部の地域住民が伊勢路に関心を抱き、
山中に埋もれた古道の掘り起こしや古道ウォーキングなどの活動を開始した。
1994年(平成6年)には三重県と東紀州8市町村が合同で東紀州地域活性化事業推進協議会を立ち上げ、
熊野古道の整備を重点施策に掲げ、伊勢路の調査と広報を開始した。
世界遺産化においても、伊勢路を有する三重県では、奈良県や和歌山県に比べ盛り上がりに欠けていたが、
伊勢文化舎が雑誌『伊勢人』で取り上げたことで三重県民の関心が高まり、登録に至るきっかけを与えた。
他方で多くの東紀州の地域住民にとって伊勢路は「いつもの散歩道」という感覚であり、
世界遺産登録後も基本的に認識の変化はない。
(Wikipediaより)


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本町通りを
西側から~

※木本要害山(55.7m)

丸ポスト現役

※木製庇

こちらも~
残してや!

※空地は駐車場

にはま湯さん



袖壁

※木戸も好きです。

和洋折衷家屋

前には

岩山なんですね。

※虫籠窓

銃砲火薬店

※酒屋さんも
白鶴・白雪看板~

陶器店・商家の連なり長屋~

※3丁目旧木本町役場跡看板

木本町出身五輪選手名も~
有本 彦六(ありもと ひころく、
1915年(大正4年)10月11日 - 1945年(昭和20年)5月)は日本の体操競技の選手。
三重県南牟婁郡木本町(現在の熊野市)出身。日本体育会体操学校(現日本体育大学)出身。
1936年ベルリンオリンピックに出場し男子団体総合9位になった。種目別ゆかで35位だった。
1945年5月、東シナ海で戦死。
(Wikipediaより)

笠松 茂(かさまつ しげる、
1947年7月16日 - )は、三重県熊野市出身の元体操選手。
三重県立木本高等学校、中京大学体育学部卒。大学卒業後、東海テレビ放送に入社。
同社が運営する体操クラブチーム「東海テレビレッツ体操クラブ」(現・笠松体操クラブ:長久手市)に所属していた。
1972年ミュンヘンオリンピックの体操男子団体金メダリストで、「カサマツ跳び」で知られた。
妻は同じく体操のミュンヘンオリンピック日本代表選手だった羽生和永、
同じく体操選手だった笠松昭宏は息子(アナハイム世界体操選手権大会団体銅メダリスト)。
1970年の世界選手権(リュブリャナ)では補欠だったが、その後次第に頭角を現し
1972年のミュンヘンオリンピックで個人総合5位、1974年の世界選手権(ヴァルナ)で
個人総合優勝して「日本のエース」と呼ばれるようになった。
1976年モントリオールオリンピックでも個人総合優勝候補の筆頭にあげられていたが、
競技本番直前に盲腸炎(虫垂炎)を発症し無念の欠場となった(補欠の五十嵐久人が代わりに出場した)。
残った日本選手団はこの逆境を跳ね返し、団体総合の金メダルを獲得した。
現役引退後は、「東海テレビレッツ体操クラブ」にヘッドコーチとして出向し、1987年に「笠松体操クラブ」として独立移転した。
現在は、同クラブの顧問を務めている。
2005年に紫綬褒章を受章、2007年に国際体操殿堂入りを果たした。
過去に「東海テレビ社会人フェローの会」講師を務めていた。
(Wikipediaより)

株式会社第三銀行(だいさんぎんこう、The Daisan Bank, Ltd. )は、かつて存在した三重県松阪市に本店を置く第二地方銀行。
株式会社三十三フィナンシャルグループの子会社。
2021年5月に同じ三十三フィナンシャルグループ傘下の三重銀行を吸収合併し、行名を三十三銀行に改称した。
商号は旧国立銀行に由来するものではなく、「三重」の「三」と無尽3社が源流であったことに由来し、
三重銀行との商号の重複を回避することを意図したものである。
創業地は熊野市木本町で、初代社長は熊野市五郷町出身の斉藤敬一であった。
創業時の発起人は、五郷や木本の旦那衆のメンバ15人ほどで始まった。
本店のある松阪市、創業地である熊野市、志摩市など三重県内4市3町、和歌山県2町の指定金融機関である。
1912年(大正元年)10月12日 - 熊野共融合資会社として、三重県南牟婁郡木本町(現:熊野市)に設立する。
1916年(大正5年)9月 - 7月に設立された熊野無尽合資会社が、熊野共融の業務を承継。
1927年(昭和2年)7月 - 組織変更により、三重無尽株式会社に商号を変更する。
1940年(昭和15年)3月 - 三重勧業無尽株式会社を合併。
1944年(昭和19年)3月 - 共融無尽株式会社を合併。
1951年(昭和26年)10月 - 相互銀行に転換し、株式会社第三相互銀行に商号を変更する。

※脇道路地も深く~

丸ポスト此処にも~

※手摺付き家屋

やうこそ
熊野古道へ
ここは
木本本町通り~
お・も・て・な・し

※懐かしい風が吹きます~
やはり持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖擦り合うも他所の縁~
いつまで知った景色が在るのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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