古/いにしえの面影       其の一阡五百六拾
怪しい親爺輪っぱの会
 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2020年11月25日 水曜日
アップ日  2022年06月29日 水曜日

三重県熊野市(歩きポタⅢ)木本神社
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

木本町は、江戸時代に紀州徳川家の本藩公領地として『奥熊野代官所』が置かれ、
熊野地方(熊野川以東から三重県北牟婁郡紀北町)の中心地として栄えた町です。
木本神社は、もともと「若一王子権現」(“若一王子”は天照大神を意味します)といい、
新田地区にあったものを現在地に遷座したと言われています。
慶長13年(1608年)の遷宮棟札が現存しており、その頃から祭礼が行われています。
例大祭では、木本町の各地区から様々な山車が出されて“暴れ神輿”の異名をもつ
御神体が鎮座する神輿のお供をしながら町内を練り歩きます。
(熊野市観光公社HPより)

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

R42沿いに~

※先は松本峠~

木本神社

※六方行列は、元和5年(1619年)に徳川親藩として紀州に入国した徳川頼宣公を迎え、
本藩公領地となった住民がその喜びの心を表して始められたものとされています。
安政2年(1855年)3月、熊野にある木本組3組の本藩領と
有田・日高方面の新宮支藩領を村替えするという公示があり、熊野にある公領4組の住民は、
3ヶ年にわたり村替え阻止の運動を展開しました。
この騒動を解決しようと乗り出した本藩組頭「吉田庄太夫」は、村替え永久据置き以外に
解決方法はないと判断し、独断をもって住民に永久据置きを誓いました。
後日、事件を決着させるために江戸に発つことになった吉田庄太夫を、木本住民は大明神の旗を立てて見送り、
村民のため一身を捨ててその解決に尽力した徳にちなみ、吉田大明神として祀りました。
こうした村替え騒動決着を機に、六方行列は一段と強化されたと伝えられます。
“六方”の名前は、天地東西南北の6方向に大きく手を振って足を強く踏みしめるような所作から、
歌舞伎の六法(方)に由来していると言われています。
笛吹き・歌い手数名に次いで、挟み箱・熊毛・鳥毛・手槍・立ち台・弓・鉄砲などの道具を身に着け
奴姿に扮した総勢22人から30人の若い衆が行列を組みます。
(三重の文化HPより)
 
鎌倉時代の木造狛犬が現存するとか~
見たかったですわ!

※ 20年おきに遷宮
10年毎に中遷宮
されていたとか~

安政2年(1855年)徳川御三家の紀州藩直轄から新宮城主・水野氏に知行替えが交付された際、
木之本村(現三重県熊野市木本町)周辺住民の猛反対(安政の村替騒動)が起こり、
当時の藩士吉田庄太夫の尽力により知行替えは中止された。
境内には庄太夫を称え、吉田大明神の石祠が祀られている。
(Wikipediaより)


お邪魔します~

※社殿正面

大きな手水舎

※宝暦七年銘
 

暴れ神輿
御神体を移した神輿は約1トンもの総重量があります。
基本的には台車に載せられて町内を練り歩きます が、「浜担ぎ」や町内に設けられた各”宿所”では
百数十人もの奉仕委員によって直接担がれます。
「浜担ぎ」とは、神輿が御旅所(おたびしょ)《稲荷神社》 の到着した後、
台車から外されて百数十人もの奉仕委員に担がれ、七里御浜で 熊野灘の荒波に神輿を浸け、
浜に落として清めを行うものです。
神輿渡御(みこしとぎょ)の道中、町内に設けられた各”宿所”で供え物として
住民から振舞わ れる酒が、次々と神輿に振り掛けられ、
伊勢音頭が高らかに歌われる中で勇壮に担がれる様子から”暴れ神輿”の異名があります。
神輿を担ぐ時の”チョーサ ヤ、チョーチョ”という掛け声は、
中国語の”招財”を起源とする”ワッショイ”の古い形の言葉といわれているものです。
(熊野市観光公社HPより)

※境内の大きな楠

狛犬


※吽

文政期の石燈籠



国君御安隠
徳川御三家の紀州藩直轄が良かったんでしょうね。

※拝殿舎扁額

いきつけの干物屋さん

※土蔵も~

木本漁村センター前に
南翁頌徳碑

※諸魚類萬霊之供養塔
 
 
西郷川
鬼城橋
 
 R42の海側に
鯨魚供養塔
明治13年にも浪人(武士)が居たんですね。
鯨魚供養塔、明治十三(1880)年庚辰十二月七日当浦漁夫中」とあり、
早朝、鯱に追われた一頭の巨鯨が、脇ノ浜の波打際に跳ね上り、
岩屋で野宿をしていた一人の武士がこれを発見、
親井戸の漁夫たちに急報ついに捕獲して代金千五百円の収益をあげ、
この収益を生かして、木造二階建の木本小学校を新築落成した。
鯨を発見した浪士は、岡山の藩士で、その功を賞讃され、
時の木本浦戸長から、脇濱の姓をいただき、ながく木本住民として暮した。

指定 昭和五十四年四月一日
熊野市教育委員会

※脇の浜

右端が鯨魚供養塔

※熊野詣の海際道で
高波にさらわれた方々の供養地蔵尊も~

 R42沿いに~
さんまの丸干し



 煉瓦塀にも目が行きます。

※緩やかな膨らみのある
石垣も~
やはり持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖擦り合うも他所の縁~
いつまで知った景色が在るのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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