古/いにしえの面影       其の一阡五百五拾六
怪しい親爺輪っぱの会
 別館 一人歩き編です。

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撮影日  2019年04月09日 火曜日
アップ日  2022年06月29日 水曜日

奈良県磯城郡田原本町多(多神社)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

太 安万侶(おお の やすまろ)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族。
名は安麻呂とも記される。姓は朝臣。小錦下・多品治の子とする近世の系図がある(『阿蘇家略系譜』)。
官位は従四位下・民部卿、贈従三位。
文武朝の大宝4年(704年)正六位下から二階昇進して従五位下に叙爵する。
和銅4年(711年)4月に正五位上に昇進する。
同年9月に元明天皇から稗田阿礼の誦習する『帝紀』『旧辞』を筆録して史書を編纂するよう命じられ、
翌和銅5年(712年)1月に『古事記』として天皇に献上した。
元明朝末の和銅8年(715年)従四位下に至る。
元正朝の霊亀2年(716年)太氏(多氏)の氏長となる。
またこの間、養老4年(720年)に完成した『日本書紀』の編纂にも加わったとされる。
元正朝末の養老7年(723年)7月6日卒去。最終官位は民部卿従四位下。
明治44年(1911年)になって、従三位に追陞されている。

和銅5年(712年)に書かれた『古事記』の序には安万侶が勲五等の勲等を得ていることが記されている
(墓誌にも同様の記述がある)。

勲等は武官としての功績で得たと考えられることから、
安万侶を単なる文官として位置づけることには問題があるとして、以下の考察がある。
和銅2年(709年)に行われた蝦夷征討に副将軍格で参加したとの推測。
神亀元年(724年)の蝦夷征討で副将軍を務めた大野東人は勲四等の勲等を得て
従五位上から従四位下に昇叙されていることも参考になる(黛弘道)。
多氏の一族で安万侶のみ四位に昇っていることに着目し、多氏は五位までの昇進に留まる家柄であったが、
安万侶はその戦功によって例外的に四位まで昇った(鷺森浩幸)。
(Wikipediaより)


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櫻色に染まった奈良盆地



飛鳥川沿いに~

畝傍山も遠望できます。

田お越しの季節

飛鳥川沿いに
参道が在ります。
多くの燈籠~

※多坐弥志理都比古神社(多坐彌志理都比古神社、おおにいますみしりつひこじんじゃ)は、
奈良県磯城郡田原本町多にある神社。
式内社(名神大社)で、旧社格は県社。

一般には多神社(おおじんじゃ)と呼ばれ、多社、多坐神社、太社、意富(おお)社とも書かれる。
社号標には「多㘴彌志理都比古神社」と記す。
当地は多氏の拠点であり、多氏の祖神である神八井耳命を祀ったものとみられる。
古くは春日宮と称し、現在の社領地は約1万m2余を有するが、
『大和志料』によると、天文21年(1552年)、当地の領主・十市遠勝より
周囲6町四方の土地(約42万m2)を寄進されたとあり、四方に鳥居があったという。
明治時代に多村の郷社に列格し、1923年(大正12年)に県社に昇格した。
本殿の後方に「神武塚」と呼ばれる小丘があり、古代の祭祀場もしくは古墳と考えられている。
1972年(昭和47年)、当社裏の飛鳥川築堤工事中、
境内より縄文時代から古墳時代の遺跡(多遺跡)が発見された。
(Wikipediaより)


参道

※境内摂社

二の鳥居

※扁額

手水舎

※手水鉢

社殿正面

※なにわ型狛犬



※吽
まろちゃんて…

資料館

※シャクヤクの季節

4社の春日造本殿舎
以下の4座の神を主祭神とする。
第一社 神倭磐余彦尊(神武天皇:神八井耳命の父)
第二社 神八井耳命(神武天皇皇子)
第三社 神沼河耳命(綏靖天皇:神八井耳命の弟)
第四社 姫御神(玉依姫命:神八井耳命の祖母)
(Wikipediaより)

※裏側

春日造4連社は迫力です!

※本殿舎前にも石燈籠は沢山~

讃 太安万侶卿碑
川田 順(老いらくの恋)
川田 順(かわだ じゅん、
1882年(明治15年)1月15日 - 1966年(昭和41年)1月22日)は、歌人、実業家。
住友総本社常務理事。
漢学者・貴族院議員の川田甕江の三男。
京大教養部教授(英語)の川田周雄は養子。
女優・歌手の佐良直美は従曾孫。
(Wikipediaより)

※神の庭
大和の国の
初明り
冨澤佳嶺 佳鳳

境内摂社



見返って~

※三輪山方面

古事記(こじき、ふることふみ、ふることぶみ)は、一般に日本最古の歴史書であるとされる。
その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたことで成立する。
上中下の3巻。内容は天地開闢から推古天皇の記事である。
8年後の養老4年(720年)に編纂された『日本書紀』とともに神代から上古までを記した史書として、
近代になって国家の聖典としてみられ、記紀と総称されることもあるが、
『古事記』が出雲神話を重視するなど両書の内容には差異もある。
室町時代後期の神道家の吉田兼倶も、『日本書紀』を最上としつつも
『先代旧事本紀』と『古事記』を「三部の本書」と呼んで重視した。
江戸時代初期の寛永21年(1644年)に京都で印刷による刊本『古事記』(いわゆる「寛永古事記」)が
出版され、研究が盛んになった。
出口延佳が『鼇頭(ごうとう)古事記』を貞享4年(1687年)に刊行したほか、
『大日本史』につながる修史事業を始めた徳川光圀(水戸藩主)にも影響を与えた。
(Wikipediaより)

※境内摂社?
参道続きで~
小杜神社サン

鳥居

※社殿

立砂

※本殿舎

脇には日本ミツバチの巣箱



古事記献上1300年記念碑
太安万侶卿



耳成山

※金剛葛城の峰~

境内摂社
式内社 皇子神命神社

※本殿舎

全体的には~

※圃場の中の森~
やはり持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖擦り合うも他所の縁~
いつまで知った景色が在るのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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