其の一阡五百拾一
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。
(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)
撮影日 2019年01月23日 水曜日 アップ日 2021年01月07日 木曜日 |
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ワッカン~
資料として気になる街角 撮っておきや!(by UFO先生) 『日本書紀』によれば天武天皇の第3皇子とされる(『懐風藻』では長子とされる)。 『懐風藻』によると「状貌魁梧、器宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。 壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。 性すこぶる放蕩にして、法度に拘わらず、節を降して士を礼す。 これによりて人多く付託す」(体格や容姿が逞しく、寛大。 幼い頃から学問を好み、書物をよく読み、その知識は深く、見事な文章を書いた。 成人してからは、武芸を好み、巧みに剣を扱った。 その人柄は、自由気ままで、規則にこだわらず、皇子でありながら謙虚な態度をとり、人士を厚く遇した。 このため、大津皇子の人柄を慕う、多くの人々の信望を集めた)とある。 『日本書紀』にもおなじ趣旨の讃辞が述べられており、抜群の人物と認められていたようである。 686年(朱鳥元年)9月に天武天皇が崩御すると、同年10月2日に親友の川島皇子の密告により、 謀反の意有りとされて捕えられ、翌日に磐余(いわれ)にある訳語田(おさだ)の自邸にて自害した。享年24。 『日本書紀』には妃の山辺皇女が殉死したとしている。 また、『万葉集』の題詞には薨去の直前に、姉である大来皇女が斎王を務めている伊勢神宮へ向かったとある。 (Wikipediaより) (※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)
やはり持ってるものはUPして
資料的に残さねば… 気を抜いたらあきません~ 何時のが出てくるか判りまへんで! 袖擦り合うも他所の縁~ いつまで知った景色が在るのやら。。 頑張ってボチボチ更新中…^^;
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