古/いにしえの面影       其の一阡五百七拾五
怪しい親爺輪っぱの会
 別館 一人歩き編です。

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撮影日  2020年08月某日 某曜日
アップ日  2022年08月17日 水曜日

和歌山県田辺市東陽(鬪鶏神社)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

鬪雞神社
允恭天皇8年9月、熊野権現(現在の熊野本宮大社)を勧請し、田辺宮と称したのに始まる。
白河法皇の時代には新たに熊野三所権現を勧請した。
平安時代末期の熊野別当・湛快のときにさらに天照皇大神以下十一神を勧請して新熊野権現と称し、
湛快の子の湛増が田辺別当となった。
武蔵坊弁慶は湛増の子と伝えられ、その子孫を名乗る大福院(当社境内)から
寄進された弁慶の産湯の釜が当社に残る。
田辺は熊野街道の大辺路・中辺路(熊野古道)の分岐点であることから、
皇族や貴族の熊野詣の際は当社に参籠し、心願成就を祈願した。
熊野三山の全ての祭神を祀る熊野の別宮的な存在であり、
当社に参詣して三山を遥拝して山中の熊野まで行かずに引き返す人々もいた。
『平家物語』などによれば、治承・寿永の乱(源平合戦)の時、
湛増は社地の鶏を紅白2色に分けて闘わせ、白の鶏が勝ったことから源氏に味方することを決め、
熊野水軍を率いて壇ノ浦へ出陣したという。
このことから「闘鶏権現」や「新熊野雞合大権現」と呼ばれるようになったが、
明治の神仏分離の際に「鬪雞神社」を正式な社名とした。
(Wikipediaより)


(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

柏木常雄
ググったら~大正期の作家さん?
藤巌公伝記編纂

※ニャンコに聞いても判らんか~

此処にも藤巌公 銘
入国300年記念

※読めない~

藤巌神社

※安藤 直次(あんどう なおつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。
紀伊国田辺藩(紀州藩附家老)初代藩主。
官位は従五位下・帯刀先生。

慶長5年(1600年)から元和2年(1616年)までは幕府老中を務めた。
(Wikipediaより)

紀州梅栽培を奨励した功労者

※大事にされています。

境内摂社なんですが~

※手水鉢

大楠

神坂 次郎(こうさか じろう、1927年3月2日 - )は、日本の小説家。
本名、中西久夫。三田文学会員。社団法人日本ペンクラブ理事。
1927年3月2日、和歌山県和歌山市出身。
1943年4月、陸軍航空学校に入校し、鹿児島県知覧特攻基地を経て、
航空通信隊員として愛知県小牧飛行基地で任務時に終戦を迎える。
終戦に際し、日本陸軍の暗号書等の重要書類を処分する役目を荷った。
書類を燃やしながら涙が止めどなく流れたと後に回想している。
戦後、故郷に帰り、株式会社淺川組の土木技師として24年間従事。
後に演劇関係の仕事に就き、長谷川伸と知り合い、時代小説を書き始める。
1982年、『黒潮の岸辺』にて第2回日本文芸大賞受賞。
1987年、『縛られた巨人 南方熊楠の生涯』で第1回大衆文学研究賞(評伝部門)受賞。
1992年の皇太子徳仁親王熊野行啓に際し、自著『熊野御幸』を2時間半に渡って進講。
自らの特攻隊員としての体験や、地元和歌山の偉人を取り上げた作品を執筆している。
(Wikipediaより)

御神木

※樹齢約1200とか~
歯痛治癒の御利益有とか~

摂社 弁慶社
武蔵坊弁慶の誕生の地ですと。



手水舎

※手水鉢

広い参道

※指定文化財も多数


2の鳥居

※扁額

社域周りには火事止め?の
広場が~

※社殿が見えます。

多くの献灯

※広い境内風景

拝殿舎



拝殿舎前狛犬

※本殿舎前には
社殿前狛犬も~


狛犬


※吽

社紋は御三の桐

※上殿

青銅製の燈籠

※石燈籠

奇麗な檜皮葺屋根

※木彫の社殿前狛犬

本殿舎の社紋は三つ巴



中殿

※中四社

下殿

※下四社

簡素な彫ですがアニメチックな~



八百万の神



木彫

※梛木の木は~

大きく空に向かって~



社殿風景~



絵馬



牡丹の彫



重厚な彫

※境内風景

摂社 玉置神社



十日戎神社



市杵島姫命神社



禁殺生穢悪

奉納馬
やはり三つ巴紋ですね



湛増弁慶の象

※源平合戦の勝敗は
熊野水軍の動向~

見返って~



歌碑

※神宮寺の跡?
使用禁止の手水鉢

日露戦争の忠魂碑




燈籠と石物

※興亜聖戦忠魂碑

鯉登 行一(こいと ぎょういち、
1891年〈明治24年〉3月27日 - 1972年〈昭和47年〉11月16日)は、

日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
1938年(昭和13年)3月、陸軍兵器本廠付となり、1939年(昭和14年)3月、陸軍少将に進級した。
翌月、熊本陸軍幼年学校長に就任。
1940年(昭和15年)11月、第35歩兵団長として日中戦争に出征した。
(Wikipediaより)



此処にも大きな楠



頌徳碑

※脇村友三翁
明治期の教育者

見返って~

※神宮寺の名残ですね。

手水鉢

ギボウシ



一の鳥居


やはり持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖擦り合うも他所の縁~
いつまで知った景色が在るのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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