古/いにしえの面影       其の一阡五百六拾四
怪しい親爺輪っぱの会
 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2020年11月25日 水曜日
アップ日  2022年07月05日 火曜日

三重県熊野市(歩きポタⅦ)鬼ヶ城Ⅰ
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

鬼ヶ城(おにがじょう)は三重県熊野市木本町にある海岸景勝地。
国の名勝(「熊野の鬼ケ城 附 獅子巖」の一部である。
熊野灘の荒波に削られた大小無数の海食洞が、地震による隆起によって階段上に並び、
熊野灘に面して約1.2km続いている。
志摩半島から続くリアス式海岸の最南端で、これより南はなだらかな砂浜の海岸(七里御浜)へと変わる。
東口から山頂へ通じるハイキングコースには桜が植えられており、
春には4種類の桜が次から次へと開花して長期間花見が楽しめる。
1935年(昭和10年)に国の天然記念物に指定された後、1958年(昭和33年)に獅子巌が追加指定され、
名勝および天然記念物「熊野の鬼ケ城 附 獅子巖」となった。
ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年7月登録)の一部。
また、日本百景に選定されている。

坂上田村麻呂が桓武天皇の命を受けて、鬼と恐れられこの地を荒らし廻っていた
海賊・多娥丸(たがまる)を征伐したという伝説。

(Wikipediaより)

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

R42から枝道で~

※鬼ヶ島センター
 
枝道脇に~
田本 研造(たもと けんぞう、
天保3年4月8日(1832年5月8日) - 大正元年(1912年)10月21日)は
、現在の三重県熊野市神川町出身の写真家。

別名は音無榕山(おとなしようざん)。
1832年(天保3年)4月8日に紀州牟婁郡神川村(現熊野市神川町)に生まれた。
医学を志して23歳の時に長崎に赴き、蘭方医吉雄圭斎(よしおけいさい)の門に入る。
ここで医学や化学を学びつつ西洋科学の諸事情に触れ、1859年(安政6年)には長崎から箱館(函館)に移り住んだ。
ところが、しばらくして右足に凍傷を負って脱疽となり、
ロシア医師ゼレンスキーの手術により一命を取りとめるものの右足切断の悲運に遇う。
しかし、これが縁となって写真の道に進むことを決め、写真技術を習得すべく研究を始める。
ゼレンスキーからも教えを受けたと思われ、1866年(慶応2年)頃から写真師として活動を始めている。
翌年には、既に当地で営業していた写真師木津幸吉とともに松前(箱館)に赴いて、
松前城(福山城)と藩士らを撮影している。
中でも、城は明治時代にその大部分が取り壊されているため、
それらを写した写真は、今日では貴重な記録となっている。

1868年(明治元年)、箱館戦争の中にあって旧幕府軍の榎本武揚や土方歳三を撮影し、
その後、建設が始まった札幌の町をはじめとする、北海道開拓事業の記録写真を残した。
箱館戦争の際に撮られた洋装姿の土方歳三は、おそらく田本の撮影した写真の中で最も有名なものであり、
幕末関係の様々なメディアに取り上げられている。
田本は函館に採光用ガラス窓のついた本格的な写真館を構え、
この北海道初の写真館は、なかなかに繁盛したという。



彼のもとからは多数の有名な写真師が輩出し、田本研造は函館のみならず、
北海道における指導者的立場の写真師であり功労者であったといえよう。

1912年(大正元年)10月21日、函館で81歳の生涯を閉じる。
彼の撮影した写真の中でも、特に北海道開拓時代の記録写真は、日本写真史上において今日高く評価されている。
脚が不自由なこともあってか、彼は一度も郷里の熊野へは帰ることがなかった。
しかし、近況報告とともに北海道の写真を送っていたらしく、神川町内にはそうした写真が残っており、
その何枚かが発見され話題となった。
地元熊野市では、1981年(昭和56年)、鬼ヶ城に顕彰碑が建てられ、
また、田本研造の名を冠した写真コンテストが開催されるなど、様々な方面から田本研造に光が当てられている。
(Wikipediaより)

手前に箱島
岬は猪ノ鼻

※木本港~

天然記念物及び名勝碑

※金平鹿(こんへいか)は、紀伊国熊野の海を荒らし回った鬼の大将。
文献によっては、海賊多娥丸(たがまる)などとも記されている。
熊野灘の鬼の岩屋を本拠として棲み、数多くの鬼共を部下にしていたという。
鬼ヶ城は断崖絶壁で、海が静かな時にしか近づけないところであり、
ここに鬼神が住んで郷民を悩ませていた。
平城天皇の頃、鈴鹿山の鬼神を退治した征夷大将軍坂上田村丸が、
紀伊国の鬼の話を聞いて討伐しようと二木島を経由して船で岩屋へと近づいた。
鬼の大将である金平鹿は手下を集め
「田村丸は物の数ではないが、観音の加護があるので我々の神通力が効かないかもしれない」
と食料を運び込んだ岩屋の石の戸を閉めてじっと閉じ籠った。
田村丸が攻めあぐねていると、沖にある島の上に菩薩のような一人の童子が現れ、
弓矢を携え田村丸を手招きした。
かしこまる田村丸に「私が舞を舞うから、軍勢も一緒に舞おう」と童子が語り
、船を並べた舞台の上で舞い遊んだ。その妙なる調べに、
鬼の大将は何事かと石の戸を少し開けて顔を出したところを、
田村丸はここぞとばかりに童子から授かった弓を引き矢を放つと、矢は金平鹿の左眼に命中した。
すると岩屋の中から金平鹿の手下の鬼たち800人が飛び出してきたが、
田村丸の千の矢先にことごとく倒れた。
千手観音の化身であった童子は、光を放って飛び去り、童子があらわれた島は魔見るか島と呼ばれ、
鬼ノ本(木ノ本)もこの故事から付けられた地名である。
(Wikipediaより)

ラッコに似た
魔見ヶ島
右側に魚釣りの方が~



鬼ヶ城入口

※周回線歩道が続いています~

門構え~

※高波や足元注意!

地磯釣りのメッカでもあります。

※千畳敷のバック~

海賊多娥丸(たがまる)の
本拠地だとか~

※千畳敷
 見返って~

※磯釣りされてます~

千畳敷の西側に~

※奥の木戸

此処から歩道も狭く上下にウネリマス~



猿戻

※絶壁ですね~

鬼の風呂桶

※露天風呂ですね~

此処も断崖絶壁ですね。
セメントで補修もされています。

※犬戻

神楽岩

※どれでしょうかね?

木喰岩

※振り返って~
落ちたら怖いですね。

歩道は下って~

※見上げたら~
絶壁!

鰐岩脇~

※波が~

向こうに獅子岩
七里御浜~



この岩が潮吹き


 
飛渡

※遠望~
橋が無ければ~怖いですね。

鬼の見張場



上部も海蝕されています~

※一望できますね。

確かに鬼ヶ城の真骨頂ですね。



まだ先に続きます~



この日は此処まで~

※引き返します~
鰐岩
やはり持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖擦り合うも他所の縁~
いつまで知った景色が在るのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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