古/いにしえの面影       其の一阡五百四拾八
怪しい親爺輪っぱの会
 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2019年04月09日 火曜日
アップ日  2022年06月28日 火曜日

奈良県橿原市城殿町(本薬師寺跡)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

本薬師寺(もとやくしじ)は、奈良県橿原市の東南に位置する藤原京の薬師寺と呼ばれた寺院。
後に持統天皇となる皇后の病気平癒を祈って天武天皇が建立を誓願した官寺である。
平城京遷都で薬師寺が西ノ京に移ると、
西ノ京の「薬師寺」と区別するために「本薬師寺」と称されるようになった。

本薬師寺は元薬師寺とも記されるほか、平城京に造営された薬師寺(平城京薬師寺)に対して、
「藤原京薬師寺」などとも呼ばれる。
これまでの発掘調査により、およそ11世紀初頭まで存続していたことが認められている。
現在は、橿原市城殿町(きどのちょう)の医王院(白鳳山醫王院)の境内に、
伽藍の遺構のうち金堂の礎石の一部が残る。
また、東塔や西塔の土壇および心礎などの礎石が周囲の水田に残存しており、
本薬師寺跡として特別史跡に指定されている。
(Wikipediaより)


(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

城殿町集落の
南側の圃場の中に…
ホテイアオイが有名だそうで~

※西側には畝傍山
向こうには西塔の基部ですかね。

鯉幟には早い時期でしたが~

元薬師寺東塔跡
東塔の基壇は、一辺14.2メートル、高さ1.45メートルで、
西ノ京の薬師寺とほぼ同じ規模であったことがわかっている。
基壇は4面の中央に階段を備え、凝灰岩により化粧されていた。
裳階の礎石は残らないが、中心の心礎および四天柱(してんばしら)4個と
側柱(かわばしら)12個のうち11個の礎石、計16個が残存し、
東西2.1メートル、南北1.7メートルの花崗岩の心礎に舎利孔がある
(西ノ京の薬師寺は逆に西塔の心礎に舎利孔がある)。
東塔の規模は、方23尺(約7.15メートル)であったとされ、薬師寺の東塔の規模
(主屋7.09メートル四方)とほぼ一致する。
現在の土壇は東西16メートル、南北13メートル、
高さ1メートルであり、東端には祠が祀られている。
(Wikipediaより)



本堂正面

※医王院扁額
 

金堂跡は、周囲の水田より1メートル余り高く、
東西36メートル、南北29メートルの土壇に、

花崗岩による方形座を備えた19個の礎石が残り、
そのうちの4個は医王院の本堂や庫裏に用いられている。
金堂は礎石の配置から、桁行(東西)76尺7寸(約24.2メートル)、
梁間(南北)39尺(約11.9メートル)で、桁行7間、
梁間4間の両廂(りょうびさし)の建築物であったと推定される。
裳階を示す礎石はないが、その存在を想定できる裳階所用瓦が出土している。
発掘調査によると、基壇は東西29.5メートル、南北18.2メートルとされ、
西ノ京の薬師寺と規模は同じで、また同様に前面3か所、背面1か所に階段を備えていた。
(Wikipediaより)

※多くの地蔵尊も~




庚申塚

※ソメイヨシノ満開!

別角度から~



わすれ草
わが紐に付く香久山の
故りにし里を忘れむがため
大伴旅人

※大伴 旅人(おおとも の たびと)は、
飛鳥時代から奈良時代にかけての公卿・歌人。名は多比等、淡等とも記される。
大納言・大伴安麻呂の長男。官位は従二位・大納言。
(Wikipediaより)

東側
飛鳥川堤の桜並木



1917年(大正6年)橿原市内の河川が豪雨で氾濫する中、
住民の避難誘導の先頭に立ち、殉職した警察官がいた。

警察官の名前は村田巳喜次巡査。熊本県出身で、
大正3年から奈良県の巡査として当時の八木署に勤務していた。

(デジタル奈良新聞より)
やはり持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖擦り合うも他所の縁~
いつまで知った景色が在るのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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