古/いにしえの面影       其の一阡五百四拾六
怪しい親爺輪っぱの会
 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2019年04月09日 火曜日
アップ日  2022年06月28日 火曜日

奈良県橿原市大久保町(大窪寺跡)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

大窪寺跡(おおくぼでらあと/おおくぼてらあと)は、
奈良県橿原市大久保町にある古代から中世の寺院跡。史跡指定はされていない。

跡地付近に所在する浄土宗の国源寺観音堂(こくげんじ かんのんどう)が
法燈を継承するとされ、同寺の境内に伝世される塔心礎は大窪寺のものと推定される。
創建は不明(出土瓦によれば白鳳期か)。
史書には大窪史(おおくぼのふひと、大窪氏)一族の記載が見え、
大窪史と大窪寺の関係を推測する説(一説に氏寺)もある。
古く『日本書紀』朱鳥元年(686年)8月21日条には、
檜隈寺(寺跡は明日香村檜前)・軽寺(寺跡は橿原市大軽町)・大窪寺の3寺に
30年を限とする封100戸の寄進の記事が見える。
持統天皇8年(694年)の藤原京遷都後は、寺域はその京域内に所在した。
また延久2年(1070年)の「興福寺雑役免帳」に大窪寺領の記載があるほか、
室町時代の「越智郷段銭帳」にも「大窪寺 四町八段半」とあり、鎌倉時代末頃までの存続が確認される。
その後、『大和志』や文政12年(1829年)の『卯花日記』では、跡地の様子が記述されている。
大窪寺の寺跡に建てられている国源寺は、建久8年(1197年)の『多武峯略記』によれば、
円融天皇の時に神武天皇の神託により創建されたものと伝わる。
また文治3年(1187年)に光慧により再興された頃には、国源寺は御陵寺としての性格を有したという。
その後、嘉吉年間(1441-1444年)頃に興福寺晨勝院の末寺に入り、8坊を有した。
現在は正安4年(1302年)の作になる木造聖徳太子立像(奈良県指定有形文化財)を伝世する。
なお、大窪寺の推定寺域内では、1990年(平成2年)に塔心礎付近で発掘調査が実施されている。
(Wikipediaより)

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

畝傍山見返って~

※神武天皇陵畝傍山東北陵参道

林道の様な~
洞村が在ったんですね。
洞村移転問題(ほうらむらいてんもんだい)とは、
1917年から1920年にかけて奈良県高市郡白橿村の大字である洞(現在の橿原市)の
住民が土地全域を隣接する神武天皇陵拡張のために宮内省に献納した問題。
同地域が被差別部落であったことから今日では部落差別問題における事件として捉えられている。
神武天皇の実在性については諸説あるものの、古代において「神武天皇陵」が存在して
祭祀が行われていたことは『延喜式』によって知ることができる。
だが、中世以後荒廃して所在地が不明となり、江戸時代以後の調査の結果、
1863年になってミサンザイの地が「神武天皇陵」であったとされて江戸幕府が修繕を施し、
1898年に拡張工事が行われた。
ところが、初代の天皇の陵墓としてふさわしいものに整備すべきであるとして
その拡張を求める意見が出された。

加えて、ミサンザイに隣接していた200戸余りの集落である洞が
当時言われるところの「新平民」の集落であったことを問題視する意見が出された。
すなわち、大正天皇の即位に合わせて1913年に刊行された後藤秀穂の『皇陵史稿』において
神武天皇陵に面した地に新平民の醜骸が土葬で埋められて聖域である陵墓を穢していると非難し、
暗に住民を神武天皇陵から一掃すべきことを述べた。
こうした見えない圧迫に耐えかねた住民は土地の献納に追い込まれたとの説がおもになされる。
一方で洞村の移転は畝傍山神苑計画の一環にすぎず、この計画はそもそもが
景観論(景観整備計画)から発せられたものであり、畝傍・久米・大久保の
一般村の民家194戸および拡張区域外の46戸あわせて240戸、および田畑・山林・墓地なども移転させられており、
被差別部落論における「聖・賎」のなかで鮮やかに描かれる論理とは実際は異なるものであったとの指摘もある。
移転は3年間かけて行われ、他地域住民の所有地を含めた洞の全域が
宮内省からの下賜金26万5千円(後に5万円追加)で買い取られる形で行われ、
住民には代替地が与えられることになった。

これは当時の部落改善運動と融和主義に応えた形で行われ、
原則的には小作人・借地人を含めた全住民に土地と瓦葺の住宅が支給された。
だが、実際に支給された土地は献納地4万坪に対して1万坪に過ぎず、
しかも周辺住民からの反発により洞の元住民は更なる差別に晒されるようになった。
ともあれ、洞の全域を潰す形で行われた拡張工事は
1940年の神武紀元2600年に合わせる形で完成されることになった。

なお、この問題は住井すゑの『橋のない川』に「"路"部落強制移転事件」として描かれている。
(Wikipediaより)

※先へ~

広い
正式?な参道~



神武天皇陵畝傍山東北陵
神武天皇(じんむてんのう、庚午年1月1日 - 神武天皇76年3月11日)は、
日本の初代天皇(在位:神武天皇元年1月1日 - 神武天皇76年3月11日)。
諱は彦火火出見(ひこほほでみ)、あるいは狭野(さの、さぬ)。
『日本書紀』での名は神日本磐余彦天皇(かみやまといはあれびこのすめらみこと)。
『日本書紀』・『古事記』によれば天照大御神の五世孫であり、高御産巣日神の五世の外孫とされる。
奈良盆地一帯の指導者長髄彦らを滅ぼして一帯を征服し(神武東征)、
畝傍橿原宮(現在の奈良県橿原市)に遷都して日本国を建国したとされる人物。
実在した可能性のある最初の天皇は、崇神天皇であるという説もある。
陵(みささぎ)の名は畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)。
宮内庁により奈良県橿原市大久保町の遺跡名・俗称「四条ミサンザイ」に治定されている。
ただし埋蔵文化財包蔵地とはされていない。宮内庁上の形式は円丘。
記紀によると畝傍山の北方、白檮尾(かしのお)の上にあると記されている。
壬申の乱の際に大海人皇子が神懸りした際に「高市社の事代主神と身狭社の生霊神」が表れ
「神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器を奉れ」と神託を受けたため、
神武陵に使者を送って挙兵を報告したとされる。
天武期には陵寺として大窪寺が建てられたとみられる。
延喜式の第21巻の『諸陵式』によると、神武天皇陵は、平安の初め頃には、東西1町、南2町の広さであった。
貞元2年(977年)には神武天皇ゆかりのこの地に国源寺が建てられたが、
中世には神武陵の所在も分からなくなっていた。
(Wikipediaより)



神武天皇陵碑






大久保の村中

※国源寺さん

境内~

※地蔵尊も

社殿内には
菊の御門

※大窪寺の説明板

前の公園は
大窪寺跡



鳥居~

※歴代天皇遥拝所~
太神宮銘
伊勢神宮でしょうか?

東向いて~

※畝傍山はランドマーク的に…

ウロウロと~




※トタン被せ家屋も~










綺麗に見えます~

※近鉄橿原線
踏切渡って~

見返って~

※畝傍御陵前駅~
やはり持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖擦り合うも他所の縁~
いつまで知った景色が在るのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
ページトップへ戻る

Copyright c 2003 Office Young Moon. All Rights Reserved.