古/いにしえの面影       其の一阡五百弐拾六
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2020年02月13日 木曜日
アップ日  2022年01月18日 火曜日

大阪府枚方市藤阪天神町(旧田中家鋳物民俗資料館)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)
枚方の鋳物師田中家
田中家は、古くから、河内国茨田(まった)郡枚方村(現在の枚方市枚方上之町)で
鋳物業(いものぎょう)を営んでいました。
江戸時代の鋳物師(いもじ)は、公家(くげ)の真継(まつぎ)家の支配下にあり、
田中家は北河内で唯一、正式に営業を許可された鋳物師でした。
さらに、真継家から「河内国左右惣官鋳物師」に任ぜられ、
河内の鋳物師を統率する営業規模の大きい由緒ある鋳物師として認められていました。
田中家は、江戸時代を通じて、近隣の人々が日常生活に使う鍋・釜や農具のほか、
寺院の梵鐘なども鋳造(ちゅうぞう)しました。
明治以降、日本各地に近代的な工場がつくられてからも、
伝統技術を守って営業を続けましたが、昭和35年頃に廃業しました。
枚方市では、貴重な文化遺産である鋳物工場と主屋の寄贈を受け、
両建物を移築・復原し、全国でも珍しい鋳造関係の専門資料館として整備しました。
(枚方市HPより)

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

当館は、鋳物工場と主屋の耐震工事のため平成28年10月から約1年間休館し、
合わせて展示リニューアルも実施しました。
(枚方市HPより)


前には

念願のいざ!



竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ、英: pit-house, pit-dwelling)は、
地面を円形や方形に掘り窪め、その中に複数の柱を建て、
梁や垂木をつなぎあわせて家の骨組みを作り、その上から土、
葦などの植物で屋根を葺いた建物のことをいう。
なお、「竪穴住居」(たてあなじゅうきょ)と表記することもある。
(Wikipediaより)


※入ってみます~

快適そうですね~



床の中央か一方に片寄って炉がある場合が普通であり、
古墳時代以降は壁際にカマドを設ける事例が一般化する。
排水のため床の周りに溝を巡らしていることも多い。
竪穴(縦穴)建物の屋根の軒先は地面付近まで下がることが多かったと推測され、
外からは屋根しか見えなかったものと考えられる。
屋根はアシやカヤなどの茎で葺いたことが多かったと思われるが、
土葺、草葺の屋根も多かった。
学校教科書などには、茅などで葺いた想像図が多く載るが、
1990年代以降は樹皮を敷いて土をかぶせた土葺(土屋根)で復元された竪穴住居遺跡も多い。
これは発掘時の土壌・遺物分析で茅由来の物質が見つからなかったり、
当時の地形・植生では茅の採取が難しいと推測されたりしたことによる。
(Wikipediaより)



 
こんなに奇麗に葺けるんでしょうか?

※煙抜きも~

枚方市立田口山小学校(ひらかたしりつ たのくちやましょうがっこう)は、
大阪府枚方市田口山三丁目にある公立小学校。
地域の宅地化により、周辺の4小学校の校区を再編する形で1975年に開校した。
学校敷地は、弥生時代の遺跡・田口山遺跡の上に立てられている。
校門近くには田口山遺跡の説明板があり、また遺跡保護のため運動場には盛土が施されている。
田口山については、学校周辺の地名は「たぐちやま」と読ませるが、
学校名は「たのくちやま」と読ませる。
もともとの地域名は「たのくちやま」だったが、1980年の枚方市条例により
地名は「たぐちやま」と読ませるようになった。
学校名に古い地名の読みが残った形になっている。
(Wikipediaより)




田口山遺跡の説明文

※長尾西遺跡の説明文

西長尾遺跡で発掘された弥生時代後期の実物の住居跡です。
方形住居跡の約半分をとどめるだけですが、炭化材が残っていたため、
地面から切り取って移設しました。
(枚方市HPより)


※綺麗に残るんですね。

この家は、田中家の表屋(オモヤ)として使われていたものです。
北河内一帯の農家は屋根にわらなどを葺いていましたが、
田中家は鋳物師(イモジ)という火を使う仕事をしていたためか瓦を葺いています。
しかし、その他は農家とほとんど変わりません。
家の中は、約半分を畳敷、残り半分を土間とし、
土間の奥にはカマヤと呼ばれる炊事場があります。
畳敷部分は「田」の字形に部屋を区切り、それぞれを使い
分けていました。
ナカノマは入口に一番近いため日常的な客の接待に使い、サシキは正式な客間、
ダイドコロは食堂兼居間、ヘヤは寝室に使っていました。
(枚方市HPより)


※移築家屋なので井戸も掘られていません。

旧田中家の残置物でしょうか?

※黒漆喰のオクドサン

温もりの物達

※炬燵も~

薪ストーブは欲しいくらいです。

※箪笥たちも~

ちゃぶ台、チャブ台(ちゃぶだい)は、日本で用いられる四本脚の食事用座卓である。
一般的に方形あるいは円形をしており、折り畳みができるものが多い。
上座、下座という上下の関係があまり感じられず、
昭和初期の家族の団欒を象徴するシンボルとして取り上げられる。
1887年(明治20年)ごろより使用されるようになり、1920年代後半に全国的な普及を見た。
しかし1960年(昭和35年)ごろより椅子式のダイニングテーブルが普及し始め、
利用家庭は減少していった。(Wikipediaより)


※ふご
幼児の入れ物
親の温もり~

灯り達



提灯や
がんどう等~

枚方大橋
淀川に架かる橋のうち、大阪府内で一番上流にある橋である。 長さは689メートル。
中世以前、淀川には長柄橋と山崎橋という2つの長大橋が架けられていたが、
度重なる流失・破壊と中央集権体制の弱体化により維持できなくなり、いつしか廃絶となった。
それ以降、明治維新以前には淀川の大川と中津川分岐点より上流には橋が架けられた記録はなかった。
枚方宿の近くには、昭和時代以前は現在の橋付近に渡し船があった。
1930年に初代の枚方大橋が完成し、2車線の道路橋として使用された。
両端部は15連の直弦トラス構造であり、京阪電気鉄道の旧宇治川・木津川鉄橋を転用のため移設したものである。
また、中央部は2連の曲弦トラスが新規製作された。
現在の橋は2代目である。
旧橋の老朽化による代替と交通容量拡大のため「都市計画道路枚方高槻線」の一部として計画され、
1967年にまず上流側の2車線分が竣工したのち旧橋を撤去し、1971年に下流側へ拡張され両側4車線となった。
(Wikipediaより)


唐箕(とうみ)とは、臼などで籾殻をはずしたあと、風力を起して穀物を 籾殻・玄米・塵などに選別するための農具。
中国で開発されたといわれており、宋応星の『天工開物』に「風扇車」として最初の記述が見られる。
日本では、佐瀬与次右衛門の『会津農書』(1684年刊)で紹介されたのが最初である。
『和漢三才図会』(1712年刊)にも記載されており、そのころから日本の農家にも広がっていったと考えられ、
近世期から現代まで使われてきた。
稲作が機械化したのちも唐箕は豆やソバ等の選別に使われ、現在でも農機メーカーからかつての
木製のものと基本的に同じ構造の唐箕が市販されている。価格は数万円程度である。
(Wikipediaより)


※山際農機製作所
奈良電狛田駅前
前には
奈良電気鉄道(ならでんきてつどう)は、
現在の近畿日本鉄道(近鉄)京都線に当たる鉄道路線を建設した鉄道会社である。
通称は「奈良電」、「奈良電鉄」。沿線で路線バス事業も行っていた。
本社所在地は現在の京都市伏見区、桃山御陵前駅前に位置していた。
京阪電気鉄道と大阪電気軌道(通称:大軌、近鉄の前身)両社及び
関係者により大部分の株を引き受け、設立。
戦後には京阪・近鉄いずれの路線とも直通運転を行っていたことがあった。
その後、京都・奈良の観光開発を積極的に推し進めていた近鉄が、
1963年(昭和38年)にその一環で奈良電気鉄道を合併、その路線を自社の京都線とした。
(Wikipediaより)


SNOWLAND
氷入れる冷蔵庫ですね。
私の小学校時分には使われていた
友人の家も有りました。

※濡縁は無いんですね。


天秤棒


三ツ口のオクドサン
日本全国で呼称はさまざまである。
関西では「へっつい」と呼ばれることが多いが、京都では「おくどさん」という名称が使われていた。
日本では20世紀末ごろには、日常生活では利用されなくなっており、
地方農村でも埃をかぶるに任せられている。
それでも1950年代頃までは使われていたため、
飯の炊き方などにこのかまどによる調理方法が口伝などの形で残されており、
これらは現代の炊飯器でも「美味しいご飯の炊き方」として再現されている。
(Wikipediaより)

碾臼
日本で多く用いられている挽き臼は、ほぼ同様の厚みを持つ円形の下臼(雄臼)の
上で上臼(雌臼)を回転させ上臼の穴から供給される大豆などを砕く形式のものである。
反時計回りに使用するものが多いがその理由は明らかになっていない。
上臼と下臼にはそれぞれ溝が刻んであり地域によって
6区画で溝が刻まれているものと8区画で溝が刻まれているものが分布している。
製粉時に熱が入りにくいという利点がある。
(Wikipediaより)


※藁の二次加工物は
多く使われていたんですね。

鍋と羽釜

※水壺と流し~

半鐘~
一本一得!

※ディーゼルエンジンのカットモデル
複雑な鋳物ですね。

ムクノキ(椋)はニレ科の落葉樹で高さ20m、直径1mの巨樹にも達する。
果肉は甘くて野鳥が食し、特にムクドリが集まるところから鳥名となった。
葉の表面はざらついていて物を磨くのみ用いられる。鋳物製品の磨きにも利用されたという。
田中家は代々河内鋳物師として名を馳せたが邸内木の椋は枚方金屋のシンボルであった。
樹齢は約500年、樹高18.3m、幹囲地上1.5mで4.82mをはかり、
枝張りは27mに及ぶ。この種の巨樹として全き形を留める樹木は
府下では珍しく、大阪府の指定樹木である。
(枚方市の紹介HPより)


※鋳物の土型の模様材料

梵鐘の制作風景が再現されています。

※梵鐘の外鋳型
ある程度、大きさが決まっているんでしょうか?

色んな鋳型模様が~

※我が家の親父は軽合金で
土鋳型でした。


日本においてプラウは、その伝来の経緯から犂(すき)と呼ばれ、
カラスキ(唐犂)、もしくはクビキスキ(軛鋤・頸木鋤)や
牛(馬)引き鋤(うしびきすき、ぎゅうひきすき/うまびきすき、まびきすき)・
牛鋤/馬鋤(うしすき、ぎゅうすき・うますき、ますき)とも呼ばれていた。
正倉院に収蔵されている子日手辛鋤(ねのひのてからすき)は、
758年正月の行事に使われたと伝えられており、
また、滋賀県草津市の中畑遺跡からは平安時代のカラスキが出土している。
なお、牛馬に牽引させる犂(すき)と手に持って使う農具の鋤(すき)は異なる農具である。
また、「犂」という漢字は俗字扱いであり、正字体は「犁」である。
犂の種類には、中国から伝来し、大化の改新の時代、時の政府が推奨した長床犂と、
朝鮮半島からの渡来人がもたらした無床犂があり、長床犂はプラウのヒールに相当する床が長く、
安定して耕起することが出来て取り扱いやすい反面、
大きな牽引力が必要で長い床の為に深く耕すことが出来なかった。
一方、無床犂は床がないために深く耕すことが出来たが、取り扱いには熟練を要し、
その取り扱う姿から抱持立犂(かかえもったてすき)とも呼ばれた。
最初に犂が伝来した九州の北部をはじめ、西日本では犂を使っての耕起が盛んであった。
後に明治から大正期にかけて長床犂、無床犂それぞれの長所を取り入れた
日本独自の短床犂が作られ、畜力による犂耕が全国的に普及した。
その後、牛や馬による畜力から、内燃機関を原動力にしたティラーや耕耘機へと牽引の動力は移り変わり、
昭和30年代、耕耘機によるロータリー耕が普及したことにより、稲作での犂による耕起法は衰退した。
(Wikipediaより)

※羽釜も~

工場の外観



丸ポストは移設されてました。

※石葺きの溝が工場の周りに~
火を使っていたから危なかったんですね。

夏は暑かったんでしょうね。
我が家も暑かったです~

※意匠が良いですね。

 このアングルも~



屋根飾り
 蛭子

※大黒

敷地内には
多くの地蔵様が~



コナレ具合が~



街道沿いに多くあったのでしょうか?



墓標兼ねられたものも有るんでしょうね。

※宝塔の頭

沢山あります。

※基部でしょうか?

陸軍用地杭も~
禁野の物も?



他にも多くの石物が~

※石臼も~

武藤善一郎著
大阪の街道と道標
サンライズ出版
に載っているかも?

※何処に建っていたんでしょうか?


唐臼も~

※宝探しのように…
まだサン如何??
やはり持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖擦り合うも他所の縁~
いつまで知った景色が在るのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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