古/いにしえの面影       其の一阡五百九
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2018年10月10日 水曜日
アップ日  2020年11月30日 月曜日
和歌山県橋本市隅田町(隅田八幡神社)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)
隅田八幡神社(すだはちまんじんじゃ)は、和歌山県橋本市隅田にある神社。
旧社格は県社。
京都府石清水八幡宮から勧請された神社である。ここに伝わる人物画象鏡は、
日本最古の金石文の一つとして国宝に指定されている。
10月中旬の例祭は、県の無形民俗文化財に指定されている。
祭礼としてはこのほか、小豆と米を炊いた粥に穴が開いた竹筒を沈め、
粥の入り具合で稲作の豊凶を占う「管祭」(くだまつり)が、
小正月の神事として江戸時代から行われている。
戦国時代の永禄3年(1560年)、松永久秀によって社殿堂塔が一時焼亡したが、
慶長年間に再建されている。
(Wikipediaより))


(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

国道24号
奈良県と和歌山県県境

※向うには隅田の集落

県境石

※是より東は奈良県管内

但し川の中央を以て境界とす
落合川なんですね。

※昭和九年二月に
奈良県が建てたんですね。

前は
御祭礼でした。
宮前橋

※石鳥居

神門

※経塚が有るんですね。
神仏習合の名残ですね。

お邪魔して~

※案内図
 

 立派な拝殿舎



 手水鉢

 狛犬


※吽

日本最古の金石文の一つだそうです。

※大きなレプリカ~

 拝殿舎脇



本殿舎裏



隅田党発祥の地
鎌倉時代の13世紀初めに藤原氏(隅田氏)の請所となって石清水の支配は後退したが,
地頭職は守護北条氏の手に帰し,隅田氏は地頭代職の地位にとどまっている。
荘内には隅田惣領家から分かれた庶家が広範に分布し,
彼らは隅田八幡宮の宮座を通じて他氏をも取り込み,
隅田党という独自な武士団を構成した。
元弘の乱で,当時六波羅探題の検断,軍奉行であった惣領家が北条氏とともに滅びると,
かわって葛原氏が台頭し,室町時代には一族結合の中心となった。


※一族には足利尊氏の下で後醍醐天皇方についた者もあり,
鎌倉幕府の滅亡後,隅田北荘は隅田一族に安堵された(南荘は高野山領となる)。
滅亡した惣領家にかわり,葛原氏,上田氏ら有力庶子家を中心に,
隅田八幡宮を氏神とする合議的な一族の結合が生まれ,隅田党と呼ばれた。
隅田党は南北朝時代には南朝方となり,室町時代には守護大内氏,畠山氏に属し,
のち織田信長に仕えて高野攻めに加わり,ついで豊臣秀吉に従ったが振るわず,
江戸時代には紀伊藩主徳川氏の下で,隅田組として地士身分を与えられた。
(コトバンクより)


意外な歴史が~

※明治29年の軍人さんの碑

茨木惟昭 筆
紀州藩士・茨木藤助の長男として生まれる。1871年(明治4年)、陸軍大尉に任官。
以後、歩兵第10番大隊取締、大阪鎮台歩兵第10番大隊長を経て、
1874年2月から翌月にかけて佐賀の乱に出征。
1877年3月から10月にかけて歩兵第10連隊長として西南戦争に出征し奮戦した。
歩兵第14連隊長、大阪鎮台参謀長、参謀本部副官、近衛参謀長、陸軍戸山学校長などを歴任し、
1890年6月、陸軍少将に進級。
日清戦争には歩兵第11旅団長として、1895年1月から12月にかけて出征した。
戦後、第2軍司令部付として金州行政長官、さらに占領地総督府民政部長、
同総督府参謀長兼民政部長を務めた。
歩兵第8旅団長を経て、1896年10月、陸軍中将となった。
第6師団長を務め、1900年4月、予備役に編入。
日露戦争勃発に伴い召集を受け、1904年3月、留守第4師団長を1906年2月の召集解除まで務めた。
1911年4月1日に後備役となる。
1895年8月、男爵の爵位を授爵し華族となり、1905年12月から1911年7月まで貴族院男爵議員に在任した。
(Wikipediaより)


※境内摂社

えべっさん

高島先生~
力石です。

※ん?

 これですかね。。。

※馬蹄石~
やはり持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖擦り合うも他所の縁~
いつまで知った景色が在るのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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