国道24号
奈良県と和歌山県県境
※向うには隅田の集落
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県境石
※是より東は奈良県管内
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但し川の中央を以て境界とす
落合川なんですね。
※昭和九年二月に
奈良県が建てたんですね。
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前は~
御祭礼でした。
宮前橋
※石鳥居
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神門
※経塚が有るんですね。
神仏習合の名残ですね。
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お邪魔して~
※案内図
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立派な拝殿舎
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手水鉢
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狛犬
阿
※吽
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日本最古の金石文の一つだそうです。
※大きなレプリカ~
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拝殿舎脇
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本殿舎裏
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隅田党発祥の地
鎌倉時代の13世紀初めに藤原氏(隅田氏)の請所となって石清水の支配は後退したが,
地頭職は守護北条氏の手に帰し,隅田氏は地頭代職の地位にとどまっている。
荘内には隅田惣領家から分かれた庶家が広範に分布し,
彼らは隅田八幡宮の宮座を通じて他氏をも取り込み,
隅田党という独自な武士団を構成した。
元弘の乱で,当時六波羅探題の検断,軍奉行であった惣領家が北条氏とともに滅びると,
かわって葛原氏が台頭し,室町時代には一族結合の中心となった。
※一族には足利尊氏の下で後醍醐天皇方についた者もあり,
鎌倉幕府の滅亡後,隅田北荘は隅田一族に安堵された(南荘は高野山領となる)。
滅亡した惣領家にかわり,葛原氏,上田氏ら有力庶子家を中心に,
隅田八幡宮を氏神とする合議的な一族の結合が生まれ,隅田党と呼ばれた。
隅田党は南北朝時代には南朝方となり,室町時代には守護大内氏,畠山氏に属し,
のち織田信長に仕えて高野攻めに加わり,ついで豊臣秀吉に従ったが振るわず,
江戸時代には紀伊藩主徳川氏の下で,隅田組として地士身分を与えられた。
(コトバンクより)
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意外な歴史が~
※明治29年の軍人さんの碑
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茨木惟昭 筆
紀州藩士・茨木藤助の長男として生まれる。1871年(明治4年)、陸軍大尉に任官。
以後、歩兵第10番大隊取締、大阪鎮台歩兵第10番大隊長を経て、
1874年2月から翌月にかけて佐賀の乱に出征。
1877年3月から10月にかけて歩兵第10連隊長として西南戦争に出征し奮戦した。
歩兵第14連隊長、大阪鎮台参謀長、参謀本部副官、近衛参謀長、陸軍戸山学校長などを歴任し、
1890年6月、陸軍少将に進級。
日清戦争には歩兵第11旅団長として、1895年1月から12月にかけて出征した。
戦後、第2軍司令部付として金州行政長官、さらに占領地総督府民政部長、
同総督府参謀長兼民政部長を務めた。
歩兵第8旅団長を経て、1896年10月、陸軍中将となった。
第6師団長を務め、1900年4月、予備役に編入。
日露戦争勃発に伴い召集を受け、1904年3月、留守第4師団長を1906年2月の召集解除まで務めた。
1911年4月1日に後備役となる。
1895年8月、男爵の爵位を授爵し華族となり、1905年12月から1911年7月まで貴族院男爵議員に在任した。
(Wikipediaより)
※境内摂社
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えべっさん
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高島先生~
力石です。
※ん?
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これですかね。。。
※馬蹄石~
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