古/いにしえの面影       其の一阡五百六
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

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撮影日  2020年03月09日 月曜日
アップ日  2020年11月23日 月曜日
大阪府泉南郡岬町淡輪(淡輪ニサンザイ古墳)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)
淡輪ニサンザイ古墳(たんのわニサンザイこふん)は、大阪府泉南郡岬町淡輪にある古墳。
形状は前方後円墳。淡輪古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「宇度墓(うどのはか)」として
第11代垂仁天皇皇子の五十瓊敷入彦命の墓に治定されている。
名称は「宇度墓古墳(うどはかこふん/うどばかこふん)」とも。
大阪府の最南端、大阪湾に面した台地上に築造された古墳である。
800メートルほど西にある西陵古墳(国の史跡、墳丘長210メートル)、
および西陵・淡輪ニサンザイの中間にあった西小山古墳(円墳、非現存)などとともに、
淡輪古墳群を形成する。
名称の「ニサンザイ」は「ミササギ(陵)」の転訛。
現在は宮内庁の治定墓として同庁の管理下にあるが、2014年度(平成26年度)には
墳丘の発掘調査が実施されている。
墳形は前方後円形で、前方部を西南西方に向ける。墳丘は3段築成。
墳丘長は現存で173メートルを測るが、後世に削られており、築造時点では約180メートルであったと推測される。
外部施設として、墳丘南側・北側の両くびれ部には方形の造出が認められる。
墳丘表面には葺石が葺かれ、加えて須恵質の円筒埴輪列、家・盾・キヌガサ・鳥などの埴輪が認められている。
埴輪の一部は淡輪独特の技法を有し、それらは「淡輪系埴輪」と称される。
内部施設(埋葬施設)は明らかでない。墳丘周囲には周濠が2重に巡らされている(現在は1重目のみ残存)。
この周濠付近の後円部外周部分には陪塚7基が分布し、うち6基が現存し主墳同様に宮内庁の管理下にある。
この淡輪ニサンザイ古墳は、出土埴輪より古墳時代中期の5世紀中-後半頃の西暦440年-460年頃の築造と推定される。
5世紀中頃に限って築造された淡輪古墳群の大型古墳3基(西陵古墳・西小山古墳・淡輪ニサンザイ古墳)のうちでは、
西陵古墳に次ぎ西小山古墳と同時期の築造で、本古墳の築造をもって当地での大型古墳の築造は終焉する。
これら岬町の大型古墳群では円筒埴輪に独特の技法(淡輪技法)が見られるが、
同様の技法は和歌山平野の木ノ本古墳群(和歌山市木ノ本)にも見られることから、
淡輪古墳群は紀伊勢力(紀氏)との強い関わりの中で成立したと考えられている。
(Wikipediaより))


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南海電車
淡輪駅

※駅前通り
中学生時分、釣りに来ましたわ。

イシグロでしょうか?
漆喰で固められた石塀

※大伴 昌司(おおとも しょうじ、1936年2月3日 - 1973年1月27日)は、
日本の編集者、SF研究家、映画評論家、翻訳家。別名、大伴秀司。「怪獣博士」と呼ばれた。
ペンネームの「大伴」は大伴家持に、「司」は司葉子に由来。
本名は四至本豊治(ししもと とよじ、のち「よしもと」と読みを改める)。
父は国際ジャーナリスト四至本八郎(ししもとはちろう)。
母の四至本愛子(本名アイ)は母権擁護運動家でコラムニスト。
叔父(母の弟)にニコンの研究で名高い荒川龍彦。
(Wikipediaより)


郵便局



地蔵堂

※石臼?

此処でも
廃仏毀釈の影響でしょうか?
お頭が~

※古墳ですね

環濠の排出口

※堂々とした前方後円墳

宮内庁管轄なんですね。



近くにまで住宅地が~



踏切近く

※地蔵尊

南海電車が通り過ぎました。



プラットフォームも見えます。



長屋門
奈良の路地に似てます。

※先に~

此処もイシグロの様な~
01 02

※石が大きめですがね。

此処も屋門



ミカンの実も色付いて~



皇紀2600年記念碑

※第四防空組合 銘

何の石材?



踏切の向こうの土蔵



海に続く路地

※この石材は?

路地をぶらりと~



地蔵堂



好きですねん。




※家屋門

本瓦~



レンガ塀



これまた好きですねん!

※太鼓橋?
やはり持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖擦り合うも他所の縁~
いつまで知った景色が在るのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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