いつも名神高速道路を
東へ走るたびに奇麗な山の姿に見とれてました。
※モナドノックを調べたら~
残丘(ざんきゅう)は、準平原の中に存在する孤立した丘のことを指す。
一般に、そこだけが周囲よりも岩盤が硬いために、断層運動や浸食によって、
侵食から取り残されたものである。
(Wikipediaより)
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奇麗な青い圃場が広がっています。
※三上山脇の女山(270m程)に向けて
真っすぐに~
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三上山と絵に成る御家
Kさん如何でしょうか?
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川も利用して~
弁柄が綺麗に…
※天保義民碑
この日は工事中で通行止めです。
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寺跡でしょうか?
※登山口でも有るんです。
信仰と伝説・祈りの御山
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妙見堂跡
※手水鉢
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三上山登山道案内板(表道)
※髭題目ですね。
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登り始めたら~
割れ石だそうで…
※頑張って通ります~
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山頂まで200mに背中を押されて~
※岩山なんですね。
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地質学者さんの話では
昔々琵琶湖が東から西に今でも移動している
証とか~将来は日本海と合流するとか…
本当でしょうかね。
※遠く琵琶湖の向こうに比叡山
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ガンバです!
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琵琶湖は遠く~
※野洲川の脇に新幹線
のぞみが~
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MIHO MUSEUMもあの方向
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狛坂摩崖仏も~
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三上山山頂432m
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御上神社奥社
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磐座
※苔ヶ谷
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標石
※御上神社御旅所
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裏登山道下って~
天保の熱
「人の為 身は罪とがに 近江路を
別れて急ぐ 死出の旅立ち」
三上村庄屋 土川平兵衛 辞世の句
※江戸時代の三大飢饉の一つ「天保飢饉」が全国的に頻発し、幕府は財政再建のため、
近江でも実際の長さより短い検地竿を用いて検地のやり直しを行なった。
この不正検地に対して農民たちは決死の覚悟で強訴に立ち上がった。
指導者となった庄屋の中に、市原村の田島治兵衛、
深川村の田中安右衛門、杉谷村の西浦九平衛らがいた。
天保13年(1842)10月14日未明、矢川寺(矢川神社)の鐘を
合図に次々集まった数千人の農民は、検地奉行市野茂三郎がいる三上村(現・野洲町)を
目指して、野洲川周辺の農民を集めながら進み、10月16日に三上村本陣に殺到し、検地の中止を求めた。
これが世に言う「天保一揆」で約4万人の規模に膨れ上がったともいわれる。
結果として「検地10万日の日延べ」が発せられた。
その後指導者達は捕えられ、処刑されたが、このように勝利を得た一揆は全国他にない。
維新後の明治2年(1869)罪人の汚名を解かれ、義民たちを顕彰。
(甲賀市観光ガイドHPより)
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義民の碑
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駐車場の脇に在ります。
※頭が下がります~
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屋根の傾斜が緩い家屋が目につきます。
※圃場の中の道を~
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向うの杜は鎮守の森
※アオサギ
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悠紀斎田碑
何やろか?
※広い圃場
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先へ~
※天皇の即位の礼の後に行われる大嘗祭において、
儀式に用いる新米を収穫するための田を斎田(さいでん)という。
斎田は東日本から1か所、西日本から1か所選ばれる。
この2か所は京都を境に畿内5国(山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国)以外の国から
選ばれるが、東日本の斎田を悠紀(ゆき)斎田と呼び、
西日本の斎田を主基(すき)斎田と呼ぶ。
(Wikipediaより)
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※昭和3年の昭和天皇即位式に続いて行われる大嘗祭に供える米を作
る田(悠紀斎田・ゆきさいでん)に野洲郡三上村(現在の野洲市三上)の
大田主粂川春治氏が選ばれました。お田植まつりは、これを記念して毎
年5月の第4日曜日に行われます。
(お祭りパンフレットからの部分引用)
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御上神社
※扁額
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御由来
※悠紀斎田
見返って~
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茅の輪
※国の重文
楼門
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手水舎
※手水鉢
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日露戦役記念の狛犬
阿
※吽
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本殿舎
国宝ですと!
※拝殿
国の重文
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摂社の若宮神社
国の重文
※
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末社 三宮神社
県の重文
※拝殿舎から楼門望む
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